祗管打坐
読み方:しかん たざ
意味
禅において、悟りを得ようとする目的意識や雑念を離れ、ただひたすら坐禅すること。坐禅そのものを修行・悟りの現れとして重んじ、特別な方法や作為を加えず、静かに座ることをいう。
由来
中国禅で用いられた「只管(ひたすら)打坐(坐禅する)」という表現に由来する。宋代の禅僧・天童如浄(1163~1228)が重視した教えとして知られ、日本では道元が宋から帰国した1227年ごろ以後、曹洞宗の根本的な坐禅観として広めた。道元の『普勧坐禅儀』にも「只管打坐」の語が見える。
備考
主に曹洞宗で重視される禅語。「祗」は「只」とも書き、一般には「只管打坐」の表記も広く用いられる。単なる黙って座ることではなく、坐禅自体を仏道の実践とみなす考え方である。
別表記
- 只管打坐
誤用・混同注意
- 「祗管」は「只管」とも書く。誤字ではないが、一般には「只管打坐」の表記も広く用いられる。
- 「打坐」を単に『座る』という日常的な意味だけで理解せず、禅の修行としての坐禅を指す語である。
例文
- 曹洞宗では、悟りを求めて焦るのではなく、祗管打坐の姿勢で座ることを大切にする。
- 毎朝二十分、携帯電話を遠ざけて祗管打坐する時間を設けている。
- 彼は悩みへの答えを急がず、まずは祗管打坐して心を整えようとした。
分類
類義語
- 只管打坐
- 坐禅
- 黙照禅